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日記帳|2001年10月

10月1日(月)

 今日は旧暦8月15日。十五夜である。例年ならば、綱引きなどが行なわれるそうだが、今年は結願祭(3~5日)の直前なので、集落としては何もやらない。各家庭では、小豆をまぶした細長い餅を供えたりしているが。
 さて、今日から新しい朝の連続テレビ小説「ほんまもん」がスタート。「ちゅらさん」を見続けてきたので、その勢いで初回を見る。舞台は熊野で、林業家の娘の話だ。自分の関心に近いので、楽しめるかも。
 9時半、海チームの一員であるエツコおばぁを訪ね、ムンツァン捕りについて話を伺う。聞けば、昨日はトゥマール浜で9匹のムンツァンを捕ったと言う。今日も取りに行くかどうか尋ねると、「分からんさ」の答え。10時半、キヌおばぁを訪ねると、昼頃にトゥマール浜までムンツァンを捕りに行くと言うので、一緒に付いて行くことにする。11時、昭おばぁを訪ね、藍染めをしているところを拝見。また、十五夜のお餅を頂戴する。
 12時前に「うふだき荘」で自転車を借り、トゥマール浜まで行くと、8人の女たちがムンツァン捕りに来ていた。全員、ムンツブラーンと呼ばれる貝を使って捕っている。しばらくすると、キヌおばぁもやって来て、早速、ムンツァン捕りを始めたので、おばぁに付きながらムンツァン捕りを観察。キヌおばぁが、アカヤ崎ではカニを餌にしてムンツァンを捕っている人が来ているはずだと言うので、自転車を漕いで、1時過ぎにアカヤ崎へ。到着すると、そこにはミツおばぁが来ていた。しかし、着いた頃には、もう家に帰るところだったため、ミツおばぁがムンツァンを銛で突く場面を見ることはできなかった。けれども、アカヤ先から細崎に向かって歩いていたら、たまたま穴から出ていたムンツァンを発見。手づかみで1匹捕まえることができた。
 3時過ぎ、昭おばぁを訪ね、捕らえたムンツァンを1匹差し上げる。4時、キヌおばぁを訪ねると、結局、全部で10匹のムンツァンを捕まえたと釣果を報告して下さる。小さいものはすでに茹でてあり、食べるかどうか尋ねられたので、御馳走になることにした。さて、食べてみると、全くクセがなくて美味しかった。
 5時、研にぃの要請で、農水省の関連団体の事業で派遣されてきた「ふるさと応援隊」という学生たちを迎える。応援隊の学生は7日まで小浜島に滞在し、結願祭を体験したり、農家と交流したりすることを通じて、構造的問題を抱える離島の農業に対して有効な提案をするために来たのだという。5時から7時まで約2時間、この学生たちに向けて、島を一通り案内する。7時半、研にぃの家に行き、「応援隊」の学生に改めて自己紹介。8時からは、学生とともに狂言と踊りの稽古を見る。11時過ぎまで見学し、宿に戻って就寝。

10月2日(火)

 9時半、集落を歩いていたら、新本さんを見かけたので声を掛ける。以前、結願祭の日程を2~4日と誤って僕に教えたことについて謝罪されるので、こちらも恐縮してしまう。30分程度の立ち話の後、結願祭後にゆっくり話をしましょうと言って別れる。10時、北の部落会長である黒島さんを訪ね、明日から3日間の段取りを中心に話を伺う。
 ところで、今月末に北海道で研究会が開かれるのだが、その旅費を支給してもらうためには、購入した航空券のコピーを大塚プロジェクト事務局まで送るようにと、昨日メイルが届いていた。貯金の乏しい僕にとって、事前に経費を支給してもらわないと、誰かに借金をすることになる。そこで、11時に製糖工場を訪ね、航空券をコピーして、FAXで送信しておいた。
 11時半、昭おばぁを訪ね、御嶽のことや、結願祭のことなどについて話を伺う。昨日差し上げたムンツァンは、十五夜のお月様に供えたそうだ。1時、ムンツァンを銛で突くところを見るためにアカヤ崎に行くが、誰もいなかったので引き返す。2時、公民館を覗くと、明日に向けて準備が進められている。昨日の狂言の稽古を見に来ていた松竹さんがいたので、その場で立ち話。3時、依頼原稿を書くために宿に戻る。が、メイルを書くなどして時間を費やしていたら、原稿を書く時間がほとんどなくなってしまう。早く書かねば・・・。
 夕食後、北部落のキョンギンヤーで狂言の稽古を10時まで見学。その後、クバマコーポレーションの隣で、サトル、坪田さん、藤掛さんと、ビギンやネーネーズを聞きながらユンタク。

10月3日(水)

 今日から5日の金曜日まで結願祭。豊年祭、旧盆に続く小浜島3大行事の1つである。今回、結願祭を見ることで、今年は3大行事を全て見ることになる。
 9時半、人づてに神司をされていると聞いた与那覇さんを訪ねる。しかし、神司を務めていたのは今年の豊年祭までで、すでに他の人と交替したと言う。小浜島では、神司を2年交替制としているお宮がある。与那覇さんのお宮も、交替制であるそうだ。すでに神司を務めていない与那覇さんであるが、神事にかんする僕の質問に丁寧にお答えいただいた。
 10時半頃、北の部落会長宅に近寄ると、数人の男たちが集まっている。さらに近づくと、牛肉の解体作業がすすめられていることが分かる。結願祭なので、これから牛汁を作るところだったのだ。そこに居た研にぃから、「マツも手伝えよ」と言われ、男たちの輪に入る。最初は、大きな肉の塊を水で洗い、ぐらぐら煮えたぎった大鍋に入れる。そして、それが適当に煮えると、今度は鍋から肉塊を取りだし、1口サイズに切ってゆく。12時に昼食。牛汁にするには惜しいところを焼き肉にしたり、牛刺しにして食べる。これは絶品。もうこれ以上、牛は要らないよというくらい牛肉を食べる。昼食後は、煮ておいた肋骨やあばら骨から身を削ぎ落とすなどして、午後も牛汁作りのお手伝いをする。
 4時頃、メーラクヤー(ミルク家)でシクミ(リハーサル)が始まったので、それを見に行く。シクミを見終えて部落会長宅に戻ると、牛汁が出来上がっている。しばらくすると、部落のオバア達が鍋を持って集まってきた。完成した牛汁を買い求めに来たのである。牛汁を作りながら飲んだビール代は、こうやって部落の人に牛汁を売ることで賄うそうだ。
 夕食後、8時から公民館では北部落の、生活構造改善センターでは南部落のシクミが始まる。連日、北部落の狂言の稽古を見てきたので、今日も公民館で北部落のシクミを見る。10時近くまで見てから、黒島さん宅を訪れ意見交換。11時半頃に黒島邸を出て、昨晩と同じくクバマコーポレーションの隣へ行き、釣ってきたばかりの魚をつまみにして泡盛を飲む。

10月4日(木)

 今日はショウニチ。嘉保根御嶽において、北・南部落の奉納芸能が演じられる日である。
 7時、御嶽に行くと、会場設営が行なわれていたので、それを少し手伝う。9時、キヌおばぁの家で、棒踊りのシクミが行なわれる。9時半、いよいよ座周りが始まる。まずは北部落のミルクが、そして南部落の福禄寿がお宮の前を一周する。このとき僕は、研にぃの計らいによって、獅子の中に入れさせてもらった。中腰のまま獅子を被って歩いたので、かなり腰に負担がかかったが、楽しい経験となった。
 棒踊りが演じられると、いったん小休止。お宮の前に平台を組んで、狂言や踊りを演じるための舞台が設えられる。それからは5時まで、公民館執行部や来賓のあいさつを除けば、ほぼぶっ通しで奉納芸能が演じられる。稽古の段階からずっと見ていた北部落の狂言も、ほぼ滞りなく演じられ、心配しながら見ていた僕を安心させてくれた。お昼には、昭おばぁとキヨおばぁのお2人が、僕の分のお弁当を用意して下さったので、取りあえずキヨおばぁのお弁当をいただく。そして、昭おばぁには、祭りの後にお家にお邪魔して、用意していただいたお弁当をいただくことを約束する。
 ところで、今年の小浜島の結願祭には、テレビなどのカメラが集まっていた。カメラは、75年ぶりに復活するダートゥーダーという南部落の踊りを撮りに来たのである。4時過ぎ、満を持してダートゥーダーが始まる。河童のようなユニークなお面を被った男たちによる変わった踊りが印象的だった。5時頃、すべての奉納芸能が終了し、地方の演奏が鳴りやむと祭りは終わり。終了のあいさつもなく、青年会が中心となって、舞台の片づけが始まる。
 5時半、昭おばぁを訪ね、昼食として用意していただいたお弁当をいただく。このとき、染織を研究している琉大の片岡先生という人も昭おばぁを訪ねに来たので、お互い簡単に自己紹介などする。、
 7時、宿に戻って、夕飯を食べ、食後はしばらく客とユンタク。9時半、今日から小浜島に入った谷中先生さんを訪ねるため、「みやら荘」の向かいにある、「きよみ荘」に行く。谷中先生とは、11時頃までトーク。その後、夜分遅かったが、谷中先生とともに研にぃを訪ねた後、宿に戻って就寝。

10月5日(金)

 今日は、トゥンドゥミ。結願祭の締めの日である。初日のシクミと同様、北・南部落に別れて、踊りや狂言などが行なわれる日なのだ。
 さて、昨晩、アリスセンターから「らびっとにゅうず」の原稿が、メイルで届けられた。最近、メイルマガジンの発行が遅れ気味なので、午前中を使って「らびっとにゅうず」のメイルマガジン版を編集・発行する。
 12時半、研にぃの家にお邪魔し、牛そばを御馳走になる。1時、ヒデミツさんのおかあさんを訪ね、生活の移り変わりなどについてお話を伺う。3時半、南部落の福禄寿家で踊りを見学。4時、研にぃの実家(ダイクヤー)に行き、今晩のトゥンドゥミで急遽踊ることになった安里屋ユンタの稽古をする。これは、「ふるさと応援隊」5名と僕を合わせて3組6名が、余興として踊るための稽古であった。ユキおばぁから一通り教わったものの、あまり時間がないので、きちんと踊れるか心配だ。そこで、「安里屋ユンタ」を録音し、暇なときに自習することにした。
 踊りの稽古を済ませてから、北部落のミルク家に行って踊りを見る。5時過ぎ、宿に戻ってシャワーと食事。そして、時間の許す限り、踊りの稽古を繰り返す。7時半過ぎ、宿を出て公民館へ。8時、北部落の踊りや狂言が始まる。トゥンドゥミでは、ショウニチと異なる人が演じることが多いほか、お宮の前では演じない踊りも演じられる。「安里屋ユンタ」は昨日演じられなかった踊りであるが、「ふるさと応援隊」や僕のようなナイチャーに得難い体験をさせるため、舞台に上げることになったのだ。踊りの方はと言えば、多少の間違いはあったものの、無事にやり遂げることができた。踊りの終了後は、「ふるさと応援隊」が島人に紹介され、今日島にやって来た事業の事務局を務めている女性((財)都市農産漁村交流活性化機構)と仕掛け人の先生(東洋大の青木先生)によるあいさつなどがあった。
 10時頃、トゥンドゥミは終了。その後、研にぃ、「ふるさと応援隊」関係者(応援隊員、事務局、青木先生など)、谷中先生、僕などは、精耕さん宅を訪れ、飲みながら交流。

10月6日(土)

 今日から巷は3連休。このためか、「みやら荘」は予約が一杯で宿泊できず、10時過ぎに「かやま荘」へと移動する。11時過ぎ、昭おばぁを訪ねると、アイの葉を枝から取っているところだった。その様子を見学させてもらいながらユンタクを始めると、別のヤマトの女性が昭おばぁを慕ってやって来たので、お暇させていただく。12時、新本さんを訪ね、3時間ほどゆっくりさせていただきながら、結願祭のこと、御嶽のこと、生活史などを伺う。
 4時、細崎で天然・養殖モズクを生産している大城さん夫婦を訪ねる。清一さんは、かつては「はいむるぶし」と提携して海人コースと称するツアー、すなわち、ブルーツーリズムを実践していた。しかし、もう今は難儀なことをしたくないと言う。奥さんのユミさんは漁業の将来性を憂い、ブルーツーリズムに関心がある。しかし、内地出身のユミさんの心配をよそに、清一さんはなんとかなると考えていらっしゃる。小浜島におけるサトウキビ生産の将来を心配し、グリーンツーリズム導入をすすめたい僕のようなナイチャーの願いがなかなか通じない構図と似た構図がここに見られる。
 6時、公民館において、「智恵de地域づくり・人づくり『ふるさと応援隊』まるざーゆんたく会」(現地フォーラム)が開かれる。これは、「ふるさと応援隊」事業の中で実施されたもので、青木先生によるグリーンツーリズムの講演、応援隊による発表、意見交換などが行なわれた。このフォーラムで、僕も発言する機会を与えられ、島人になれない僕の島に対する片思いの気持ち(キビ刈りを一緒に行なったカズさんは、これを「願い」と言っていた)を語った。
 9時、「みやら荘」にヒデミツさんを訪ねる。ヒデミツさんは、昔の小浜の航空写真を購入したいとおっしゃるので、購入方法を説明する。10時、キョンギンヤーに行くと、北部落の狂言部がブガレナオシをしていたので、12時過ぎまでそれに加わる。宿に戻ろうとすると、応援隊の睦ちゃんと遭遇。3時までゲートボール場にて2人でトーク。

10月7日(日)

 11時、「かやま荘」のご主人から、土地改良以後サンゴがダメになって、魚が獲れなくなっているという話を伺う。12時、「うふだき荘」を訪ねると、写真家の大塚勝久さんと出会う。大塚さんとは、竹富島でも敬老会、結願祭、世迎えの時に見かけているし、小浜島の結願祭でも拝見している。あまりに遭遇するので、一度自己紹介しておかないと気持ち悪かったので、名刺交換をさせていただいた。大塚さんは気さくな方で、自分のライフワークに対する熱い思いを語っていただくとともに、僕の研究に対して励ましの言葉をいただいた。
 自転車を借りて、「はいむるぶし」に行き、お土産用の「ちゅらさん」Tシャツを3枚購入。2時、山城さんを訪ね、ライフヒストリー、マイナーサブシステンスを聞き取る。4時過ぎから、小浜島にある御嶽をあらためて1つ1つ訪ねていると、強さんの子どもと出会ったので、一緒に野球をして遊ぶ。6時過ぎ、公民館で長儀さんと会い、公民館活動のことや製糖工場のことなどを伺う。
 夕食を「やしの木」で食べていると、サトルと坪田さんが現れる。僕が、明日、島を離れるので、ささやかな歓送会を開いてもらう。9時半、研にぃの家を訪ねると、研にぃは不在。そこで、家に居たマリコねぇねぇにお世話になったお礼を申し上げるとともに、今日まで受け入れた「ふるさと応援隊」のこと、グリーンツーリズムのことなどについて、思うところを語り合った。
 毎日、飲んでばかりだったので、小浜島最後の夜は、泡盛を飲まずに静かに過ごす。

10月8日(月)

 体育の日。ハッピーマンデー法が施行されたのは、昨年からだったっけ?
 朝食後、すぐにチェックアウトを済ませ、9時45分に小浜島を発つ船で石垣へ。今日は、小浜島小学校の子ども達により成る少年野球チーム「小浜ドリームス」の試合があるので、ユウマ、タクマ(研にぃの子ども)、ユウタ、カズキ(強さんの子ども)たちを応援するために、新川小学校グラウンドに行く。たまたま離島桟橋で学校の先生3人に出会ったので、タクシーに便乗させてもらい、新川小学校へ。到着したときは、すでに1回表は終わっていて、1回裏のドリームスの攻撃が始まるところだった。ユウマとタクマはバッテリーを組み、ユウタとカズキは二遊間を固めている。第1試合は、ユウマの好投、ユウタ、タクマのランニングホームランなどで6-0で快勝。昼食を挟んで2時から始まった第2試合も、ドリームスが8-1で快勝。これで6戦全勝。優勝目指して頑張って。
 試合後、仲盛のおじぃの車で離島桟橋へ。4時20分、小浜島に向けて出発船に乗ったユウマやタクマたちを見送る。その後、沖縄・八重山にかんする本、CD、ビデオを買い込み、5時30分に石垣を発つ船で竹富島へ。桟橋からは丸八のバスで内盛荘まで送ってもらう。今日の宿泊客は5人。8月、9月の忙しさも、10月に入って緩和されたようだ。
 夕食後、庭で泡盛を飲みながらお客さんと2人で喋っていたが、9時過ぎにはその人が部屋に戻ったので、1人でしみじみ飲んでも寂しいから、自転車で西桟橋まで行き、星を眺める。約2ヶ月前に、南風見田の浜で星を眺め、流れ星を数えたことを懐かしく思い出した。

10月9日(火)

 朝食後、大学に送れる荷物を「ゆうパック」で郵送し、9時45分の船で竹富島を出る。10時過ぎ、石垣市立図書館を訪ねるが休館。体育の日の振替だとぬかしやがる。県立図書館も休館日なので、図書館行きは断念。竹富町の農業委員会と教育委員会を訪ねることにする。農業委員会では、ヤッサ島を買い戻した経緯について、教育委員会では、竹富公民館に委嘱している成人学級について、資料をいただく。その後、「ゆうくぬみ」で一休み。コーヒーぜんざい(400円)を食べてから、タクシーで石垣空港に向かう。1時、ANK434便にて空港を出発、約1時間掛けて那覇空港に到着。すぐにバスに乗り込み、国際通り「松尾」で下車。予約してある「新金一旅館」へ。チェックインを済ませ、部屋に荷物を置いてからは、しばし洗濯タイム。汚れ物を洗って干して、4時に宿を出る。
 西表島ヒナイ地区の利用を巡るガイドラインの策定作業について、那覇にある森林管理所から資料をいただく予定としていたので、大原にある出先機関に電話を掛けて、取り次ぎをお願いしてみると、見事断られる。お袋から買って来るよう頼まれている「粟国の塩」(500g×19個)を購入し、郵送。5時過ぎ、那覇に来るときは必ず立ち寄る「パレットくもじ」7Fの文教図書へ。たまたま県産本フェアを開催中だったので、2時間近くかけて大量に本を買い込む。夕食としてタコライスを食べた後、買い込んだ本を置くために、いったん宿に戻る。8時半、再び宿を出て、近くの映画館へ。「千と千尋の神隠し」をレイトショー料金(1,100円)で見る。観賞後、11時頃、宿に戻る。

10月10日(水)

 宿泊している 「新金一旅館」は、いわゆる安宿の1つであるので、素泊まりする人が多いが、朝食付きにすることもできる。意外なことにと言っては失礼だが、この朝食が美味しいので、僕はいつも朝食付きにしている。今日から、朝食の値段が530円から600円と値上がりしたものの、質・量とも十分にお釣りが来る食事である。
 さて、今日は、石垣市立図書館の飯田さんに依頼された原稿の締め切り日。これは、図書館が毎月発行する「あかがーら」という冊子に載せるものだ。朝食後、10時半までかけて原稿を仕上げ、メイルで送る。
 原稿を書き終え、ずっと喉の奥に引っかかっていた小骨が取れたので、気分を良くして宿を出る。まずは、宿に広告が貼られていた「?(○の中心に・という記号)そば」(「マルテンそば」と読んだりするらしい)へ。手打ちそば(400円)を注文する。食べてみると、美味い。沖縄そばの麺のイメージをはるかに超える、良質のうどんのような手打ちの麺が秀逸。次に、那覇に来ると必ず立ち寄るマチグワーへ。歩きながら、揚げたてのサータアンダギー(40円×2ヶ)、豆乳(50円×2杯)などを買い食いする。
 2時、県立図書館へ。ここの郷土資料コーナーは、広くて資料を調べやすいのでお気に入りだ。また、いつ来ても新しい発見があって楽しい。6時半まで居座って、資料を調べたり、コピーしたりする。コピー機が1台しかないので、ときどきコピーサービスが混雑するのが玉に瑕だけど。
 那覇では、文教図書の次に良い書店として球陽堂書房がある。球陽堂書房には、最近、あまり足を運んでいなかったので、久しぶりに訪ねてみた。すると、沖縄に来てからずっと探していた『芸能の原風景』(竹富島の種子取祭台本集)を発見。石垣では各書店の在庫が一掃されてしまっており、入手を諦めかけていたところだったので、見つけたときは嬉しかった。
 夕食には、昼食に続いてそばを食べる。最近、話題の「大東そば」である。これも、麺に特徴があり、こしが強くて美味い。が、僕ならば、「マルテンそば」に軍配をあげたい。そばの後は、earthnicにてデザート。9時半には宿に戻る。
 今日は、昭和19年に那覇で「10・10空襲」があった日。この約半年後に、米軍が沖縄に上陸した。つまり、「10・10空襲」から沖縄戦が始まったとも言える。今年の同じ日は、米英軍によるアフガニスタンへの報復攻撃が3日目を迎えた。

10月11日(木)

 いよいよ長期にわたった今回の調査も、今日で終わり。小浜島の豊年祭、旧盆、結願祭、竹富島の敬老会、結願祭など、ちょうど祭りの多い時期だったので、八重山の歌と踊りの魅力にあらためて気付かされた旅だった。去年は買わなかったCD『八重山古典民謡集』(4枚組)を購入してみたり。那良伊千鳥さんの『いらさにしゃ』に聴き入ったり。そういえば、内盛荘で連日行なわれたデンサー節の稽古を聞いていたとき、ここには贅沢な時間が流れていると実感したなあ。十三夜のもとで催された「とぅばらーま」大会も素晴らしかった。
 こんな風に音楽にかんすることだけでも振り返るだけでも、様々な場面が思い浮かんで来る。そして、このとき実感するのは、八重山をフィールドとして本当に良かったということ。松井先生に感謝!
 「新金一旅館」を9時過ぎにチェックアウト。荷物を宿に置かせてもらって、県立図書館へ向かう。昨日に続いて、資料探しとコピーに時間を費やす。前に来たときは無視してコピーを取らなかった箇所が、今回は無性に気になったりする。たとえば、歌謡、民話・伝説。要するに、なんでも知りたいと思うようになっているのだ。誰かに恋しているときと同じだ。
 2時頃、マチグワーに行き、豆乳を飲み、ゆし豆腐、サータアンダギー、富士家のぜんざいなどを食べ、胃袋を満たす。その後、わしたショップでお土産を買い、「ゆうパック」で郵送。今回の調査だけで、おそらく10回近く「ゆうパック」を利用している。「ゆうパック」に感謝!待てよ、感謝されるべきか?
 宿に戻り、荷物を引き取って、タクシーで空港に向かう。4時15分に那覇空港を出発するANA90便で羽田へ。6時半過ぎ、羽田空港着。7時30分に空港発の京急バスで小田急線新百合ヶ丘駅へ。約1時間後、新百合ヶ丘着。そこから小田急線に乗って、家に着いたのが9時頃。荷物を片付けもせず、9時15分から奄美大島の高校の体育祭を撮ったNHKの番組を見る。自分の中学・高校時代の体育祭を思い出し、そのイメージとだぶらせながら見ていたら、自然と目頭が熱くなってしまった。琉球弧への熱い思いがそうさせたのか。
 さすがに疲れた。きちんと荷物を整頓しないまま、お休み。 

10月12日(金)

 久しぶりの朝寝坊。10時過ぎまで寝ていた。
 起きてからは、昨日中に終わらなかった荷物の整理。食事を作ったり、メイルを書いたりしながら、だらだらやっていたら、きちんと片づくまでに昼過ぎまでかかってしまう。1時頃、家を出て研究室へ。2時半頃、研究室に着くが、こちらもメイルのチェック、資料整理などで時間が潰れる。
 ところで、今日初めて知ったのだが、矢野・土場研の中に、社会福祉政策研究会なるものができたらしい。6時から、その研究会で実施しているプロジェクトの中間打ち上げがあったので、参加させてもらう。土場先生のほか、僕を含めて土場研の学生6人で、ちゃんこ料理に舌鼓を打つ。先生からは、沖縄から帰って来たばかりで、生活のリズムが大きく異なることに戸惑いはないかと尋ねられたが、そんなことはない。どこに行っても、あまり感動しないし、戸惑うこともないタイプだからだ。たぶん、感受性が人一倍鈍いのだと思う。
 10時に打ち上げはお開き。二次会はなく、11時過ぎには帰宅する。

10月13日(土)

 今日は、弟が京都から上京してくるので、夜は親父と弟と3人で食事することになっている。7時に新百合ヶ丘駅で待ち合わせしてあるので、研究室に行って帰ってくると往復するだけで時間がかかるので、家で作業することにした。今やらなければいけない作業は、今月末に開かれる沖縄班の研究会に向けて、レポートを書くことだ。しかし、資料のほとんどを研究室に置いているので、家でできることと言えば、大ざっぱなレポートの構想を練るくらい。とりあえず、レポートの目次を作って、だいたいどんなことを書くかを整理していたら、12時を回ったので、そばを茹でて食べる。
 昼食後、読みかけの本を読んだり、2時から4時まではサッカー鹿島×磐田の試合をテレビ観戦したり、腹筋してみたりしていると6時を回る。腹筋してみたくなったのは、八重山に滞在している間に体重が約4キロ増えて、明らかに自分の体が動きにくくなっているからだ。1日や2日程度、腹筋したところで、何も変わらないだろうが。気休め、気休め。
 6時半、家を出て、7時前に新百合ヶ丘駅へ。すでに、親父と弟は改札口で待っていた。なかなか店を決められず、駅の周りをぐるぐると歩き回ったあげく、生姜料理の店「がらがーら」で食事する。照明が暗いのが親父には気に入らなかったらしいけれど、料理はけっこう美味しかった。なぜか弟は中東の歴史・民族・文化などについて極めて豊富な知識を持っているので、昨今のテロ報復に関連した話を聞かせてもらって、だいぶ為になった。10時、親父が店を出たいというので、喫茶店に場所を移動。11時、新百合ヶ丘駅で親父と別れてから、弟とともに帰宅。

10月14日(日)

 弟の第一歌集が11月上旬に刊行されるらしい。タイトルが『駅へ』と凡庸なのが気に入らないが、やっと歌人として自分の歌を世に問うことができるようになって良かったと思う。大学を出てから約10年の間、安い給料でフリーターをしながら物書きの修行してきたわけだから、売れて欲しいなあ。12月には赤ちゃんも産まれる予定だし(と言うことは、僕はオジさんになるわけか・・・)。
 11時過ぎに弟を家から送り出してから、シャワーを浴びて、遅い朝食を取る。12時過ぎに家を出て研究室に着いたのが2時前。さっそく、沖縄から送った資料を整理整頓するが、とりあえず見苦しくないように並べるだけで精一杯。さまざまな資料を集めすぎて、どこにどんな資料があるか分からない状態になっている。来月末まではレポートを書くのに忙しそうだから、とりあえずこのままにしておこう。
 研究室の良いところは、インターネットに常時接続しているところ。自宅からはダイヤルアップで接続しているので、ネットサーフィンをするならば研究室に来る方が良い。久しぶりにインターネット使い放題の環境に戻ったので、猿のように使いまくる。特に、今回の調査で沖縄音楽に嵌ってしまったので、関係するサイトを見て回り、インディーズ時代の新良幸人関連のCDを注文したりする。けっこう楽しんでいたのだが、八重山毎日新聞のサイトが更新を中止していることに立腹。しばしばアクセスさせてもらっていたのに。
 7時過ぎ、研究室のマルちゃん、池ポン、イコマロ、タバティと一緒に夕食。食後は、京大の越智くんが西表島大富における農地開発問題を取り上げた論文を読んだり。マルちゃんが書いた論文の草稿を読んだり。越智くんの論文は、問題の経緯がよく書かれているので資料として役に立つ。ただし、地元の人が読んだら、どんな顔をするか心配だけど。
 10時過ぎ、研究室を出て家に向かう。12時前に帰宅。懲りずにネットサーフィンしていたら3時過ぎに。何時間やれば気が済むのか。

10月15日(月)

 今日は横浜へ出る用事があるので、研究室には行かず、夕方まで家に引きこもることにする。起床してからパソコンの電源を入れて、机に向かう。しかし、手許に資料がないので、あまり書き進めることができない。すぐに行き詰まり、気分転換に唄を歌ったり、サイトのトップページを書き換えたり。お腹が空いたので、麺を湯がいて食べてみたり。冷蔵庫に入っている唯一の野菜・キュウリを囓ってみたり。寝転がってみたり。そのまま、いつの間にか寝てみたり。新書本を読み始めたり。すぐに読むのを止めてみたり。こんなことをしていたら5時過ぎになったので、シャワーを浴びて、家を出る。
 玉川学園前から小田急線に乗って町田へ。ここで途中下車し、本屋で最近出たばかりの新書を3冊、パソコンショップでプリンタ用紙を購入。それから、横浜線で横浜駅へ。なんとか7時にサポートセンターに到着。すでに、十文字さん、坂本さん、土屋さん、佐々木さんが席に着いていた。ほどなく、辻本さんもやって来て、およそ3ヶ月ぶりとなる神奈川森林エネルギー工房の運営委員会スタート。議論の中心は、これから開催する研究会・シンポジウムについて。NEDOの補助金が取れたので、それを踏まえた上で、今後どのような形で研究会・シンポジウムを行なってゆくかを話し合った。9時過ぎに運営委員会終了。土屋さんをのぞいた5人で、約1時間だけ飲んでから帰宅。神奈川森林エネルギー工房のサイトを更新したりして、4時に就寝。

10月16日(火)

 明日までに決断しないといけないことがある。JALのバーゲン割引で12月12日に羽田→石垣のチケットを予約したのだが、実際に行くかどうか決めないといけないのだ。チケットが取れてから考えようと思っていたが、意外にも易々と取れてしまったので、今になって考えているのだ。とは言え、旅行は行きたいと思ったときに限るので、結局はチケットを購入することにした。予定としては、まず1週間くらい八重山を回ってから、台湾に渡って年末を過ごしたいと考えている。
 10時に起床。JALのチケットを購入する手配をするため、石垣の旅行会社に問い合わせると、八重山地方が台風21号に直撃されているところだった!最大瞬間風速は40m程度らしい。9月の長雨で夏植えが遅れているところに、今度の大型台風の直撃があって、小浜や大富のキビ農家は大丈夫なのだろうか?
 12時過ぎ、「ちゅらさん」Tシャツを着て家を出る。このTシャツの背中側には、名曲「小浜節」の歌詞が書かれている。このTシャツを恥ずかし気もなく、東京で着て歩けるのだから、僕の八重山病も相当なものだと思う。
 さて、自由が丘で途中下車して昼食を取り、古本屋と本屋に寄るなどしていたら、研究室に着いたのが3時頃になってしまった。調査中に撮影した写真の整理や、蒐集してきた資料を読んだりしていると、あっという間に8時過ぎに。ちょっと息抜きをしようかと思い、八重山の芸能をモチーフに活動を展開している「みるく」のサイトを見る。そして、サイトからダウンロードして「とぅんちゃーま」「つきぬかいしゃ」を聞く。「とぅんちゃーま」は、竹富島のユーンカイ(世迎え)で島人たちが合唱するのを聞いたことがある。また、「つきぬかいしゃ」は八重山民謡の1つで、ネーネーズのさよならコンサートを収録したCD「オキナワ」では、アルバムの最後を飾っている。2曲とも僕の好きな歌だ。潮騒をバックにして歌う「みるく」の「とぅんちゃーま」は、とても気持ち良い。3回、リピートして聞いてしまった。
 11時過ぎに研究室を出て、帰宅したのは12時半。サモア産のココアを飲んだり、昨日の(日付上は一昨日の)運営委員会の議事録を作成してから、5時に就寝。

10月17日(水)

 起きると12時。メイルをチェックして、昼食を取ってから研究室へ。すでに3時頃になっている。到着するとすぐに、月末の調査報告に向けて論文を読むなどするが、なんとなく眠くて、あまり頭に残らない。こういうときは、食事が唯一の楽しみなのだが、近くの中華料理店で食べた夕食は、けっして感動的なものではなかった。12時近くなったので、研究室を出て、終電の1つ前の電車に乗る。
 帰宅途中、登戸駅で中高時代の同窓生の原を発見。仕事帰りで、ひどく疲れているように見えた。原とは家が近いこともあり、中高時代は一緒に学校から帰ったこともある。また、大学も同じだったので、キャンパスで会えば、互いの近況報告をするような仲だった。ちょっと話し掛けにくい雰囲気だったが、僕の方から近づいて話し掛けてみた。聞くところによると、一流会社もいろいろと大変で、明るい話題がまったくない。一般的には人が羨むような道を歩んでいても、毎日のように夜遅くまで働き、そして元気がなくなってしまうのは寂しい。元気出していこうぜ。
 往復の電車の中で、橋爪大三郎の『政治の教室』を読んだ。相変わらず、歯切れの良い明快な主張が書かれていた。特に選挙にかんして、死票と呼ばれる票は死んでいないという主張に説得力があった。電車で読む本は、分かり易い本が適当だ。電車の乗り換えがあったり、回りが騒がしかったりするので、一気に読めないと、前に何が書いてあったか忘れてしまうからだ。その点、橋爪さんの本は分かり易いので、忙しい人にもお勧めだ。

10月18日(木)

 昨晩は6時過ぎに寝た。起きると12時過ぎ。日増しに起きる時刻が遅くなっており、昼夜が完全に逆転しつつある。今日は早く寝ることにしよう。研究室に行くと、いろいろと用事があって帰りが遅くなりがちだから、自宅学習を決め込む。夕方までは、PCの前に座って、文章を書いたりしていたが、次第に寒くなってきたので、7時頃から布団に入って本を読み始める。すると、そのままお休みモードに。

10月19日(金)

 6時起床。結局、11時間も寝た。よく眠れたので、朝起きたときの気分が良い。やっと、昼夜を再逆転することができた。メイルの送信、サイトの更新、洗濯、部屋の掃除などしているとあっという間に10時を過ぎる。火曜日に、僕と同じく森林(里山)ボランティアを調査研究している広島の山場さんから久しぶりにメイルを頂戴した。かなりしっかりとした内容のメイルだったので、その返事を書くのに苦労してしまった。メイル上で、あまり込み入った話しをするのは苦手だ。真意が伝わらないことが多いからだ。今までに、それで何度か失敗したことがある。今朝、山場さんに宛てて書いたメイルもうまく書けなかった。
 10時過ぎに家を出て、武蔵小杉で昼食を取ってから研究室へ。12時頃到着。それからは、部屋にこもってレポートを書くが、これが自分でも呆れるほど進まない。来週は北海道・帯広に行って、八重山調査の報告をしなければいけないというのに。とほほ。
 9時半頃に同室の丸ちゃんと、近所の中華料理店「錦」へ。日替わり(肉ニラ炒め)定食を食べる。研究室の近くにある店の中では、「錦」は注文してから出てくるまでが早く、ご飯の量が多いので良い。10頃に店を出て研究室に戻ろうとすると、緑が丘駅の前で、かつてアルバイトを一緒にやっていたメグちゃんと出会う。おそらく1年以上会っていなかったと思うが、すっかり大人になって、きれいになっていてびっくり。その場で、少し立ち話をする。ちょっと昔のことを思い出しながら。5分ほど話をしてから別れ研究室に戻る。12時近くなったので研究室を出る。1時半に帰宅。就寝は4時。

10月20日(土)

 10時起床。そばとココアという変な朝食を取ってから研究室に向かう。最近は、1日のうちでココアを作って飲むことが一番楽しい。サモア産のカカオ豆を少し削って牛乳に溶かし、暖めてから飲んでいるのだが、これが実に美味しい。
 今年の2月にサモアに行ったとき、サモア人はkoko palagi(西洋ココア、たとえば、バンホーテンの粉末から作るココア)よりもkoko Samoa(国産ココア、つまりカカオ豆を削ってお湯に溶かして作るココア)の方が美味しいと力説していた。理由は、koko Samoaを作るときに残るカカオ豆の削りカス(溶けないで残る固形の部分)が美味しいのに、koko palagiではこれを食べられないからだと言っていた。僕もそれに同意する。カカオ豆の削りカスを食べるとき、サモアのFalealupoに民泊したことを思い出し、やっぱりココアは豆を削って作らないとと思うのだ。
 さて、12時過ぎに研究室に到着。やることは昨日と一緒。そして、捗らないのも昨日と一緒。さらに、「錦」で夕食を取るのも昨日と一緒。今日が昨日だったら良かったのに・・・。
 帰宅したのは昨日より早くて12時。帰りの電車の中で、谷川健一の『柳田国男の民俗学』を読了。かなり八重山のことに触れられてあったので、参考になる部分があった。さあて、ココアを飲んで寝ることにしよう。

10月21日(日)

 起きると10時を過ぎていた。7時半に目覚まし時計とラジオをセットしているのに、まったく気付かなかった。これは、いつものことである。どうやったら、目覚まし時計で起きられるのか。仕事をしていたときは起きていたのだから、無理難題ではないはずなのだが。理由を考えると、緊張感のない生活を送っているからという原因が真っ先に浮かぶ。しかし、そうでもないのだ。最近は、起きなければいけないときも、起きることができない。だから、朝早く起きる必要があるときは、徹夜することにしている。どうすれば、起きたい時間に起きられるのだろうか?
 朝食を取ってから、夏の八重山調査で録音した音楽ファイルの整理を始める。1つ1つ聴きながら、不要なファイルは削除する。小浜島の旧盆や結願祭の様子を録音しているが、音声用として記録しているので音質が悪い。音楽を録音するならば、それ相応の録音機材がないとダメだ。
 夕方4時半に家を出て、藤沢本町にあるクラジャに向かう。6時から始まる「みるく」のライヴを聴きに行ったのだ。さて、6時過ぎにいよいよライヴが始まる。全体は、休憩10分程度挟む2部構成で、1時間半程度のライヴだった。嬉しかったのは、カバーでは「ノーウーマン ノークライ」(ネーネーズ風)、「昔美しゃ 今美しゃ」(BEGIN)、八重山民謡では「とぅんちゃーま」が聞けたことかな。「さとうきび畑」も良かった。「とぅんちゃーま」を聞けなかったのは残念だったけど。でも、「みるく」の2ndアルバム「ゆらてぃく」を2,000円で購入したので、これから毎日「とぅんちゃーま」も聞けるのだ。これは、かなり嬉しい。
 まっすぐ家に帰ってくると、10時近くになっていた。何気なくテレビを点けると、NHKスペシャル「日本人はるかな旅」が放映されていた。今日が3回目だったようだが、今回はじめてこのシリーズを見た。見始めると、そのまま釘付けに。この番組は実に面白い。今までの2回と、今日の前半を見逃したのが悔やまれる。

10月22日(月)

 起きると10時を過ぎていた。昨日と同じ展開。またしても、目覚まし時計で起きられなかった。毎朝、この後悔からはじまるのが辛い。ぱっと目覚めて、今日も1日元気出して行くぞーって、朝日に向かって叫びたいものだ(ちょっと大げさか)。
 昼過ぎ、研究室に到着。図書館に行って注文しておいた本を借りたり、事務室に行って自分宛に書留で来ていた郵便物を受け取ったりなどする。そして、自分の机に座って、物書きなどを始めるが、相変わらず捗らない。原因はどこにあるのか。ひょっとしたら、キーボードを打ちながら飲んでいるゴーヤー茶に、仕事を遅らせる作用があるのかもしれない。そんなあり得ないことを考えながらも、気になり始めると気になるもので、途中から紅茶を飲み始めるが、一向に仕事は進まない。明日はサンピン(ジャスミン)茶にしようか。
 そうこうするうちに12時近くなる。研究室を出て家に帰ると1時過ぎ。帰りは雨が降っていたので、ずぶ濡れになっちまった。いつもは、鞄に折り畳み傘を入れておくから、急な雨にも対応できるのだけれど、その折り畳み傘を八重山で紛失してきたので、早く新しいのを買わないといけない。
 帰宅してメイルをチェックすると、ある人から「あなたの文章はとても素敵ね」と書かれていた。今日1日、なんてことなかったけれど、この一言で救われた。なんてことない日が続くと、ちと辛いからね。
 そうそう、帰りの電車で読んでいた本の中に良い発見があった。加藤尚武がフーコーの権力概念を「正常者と異常者の区別は正常者が行なう」と表現していた。フーコーはこのように積極的に定義していないけれど、加藤尚武なりに昇華したの巧い表現だと思う。言葉になっていなかった何かに言葉を与えること。これはとても重要な仕事だと思う。しかし、誰でもできる芸当ではない。短歌の世界でそれをやっている弟(新感覚派と称せられている)を尊敬する理由はそこにある。

10月23日(火)

 今日は目覚まし時計によって7時半に起きることができた。自信を回復。やればできる。しかし、二度寝したので、結局は10時過ぎに起きることになったけど。
 12時頃に研究室に到着。1時半からのゼミに出席。最近、精神的に良くない日々を過ごしているので、ゼミでの発言にそれが現れてしまった。意味もなくいらついていたので、言葉の1つ1つに棘があるような発言となってしまった。反省。いらついているときは、他人に意見しない方がよいらしい。
 ゼミ終了後、隣席のキノビーとお喋り。キノピーの家には「中途半端はゼロに等しい」という家訓があるらしい。僕は、賛成できない。いや、賛成できる部分があるけれど、それでもいいじゃないかと思う。いろいろなしがらみがあって、そういうことを気にしているから、結果的に中途半端にしか生きられない人が僕は好きです。そういう人が、幸せを感じながら生きていけるような社会であったら良いと思う。みんながみんな、突き抜けて生きていたら、怖い。
 7時過ぎ、「もっかな探検隊」の打ち合わせのため、神奈川県民活動サポートセンターへ。昨年、出版した『もっともっともーっと神奈川!』の在庫がたくさんあるので、これをどうやって売るかを検討した。あと約700部売らないと、借金を返せないらしい。結論として、助成金を獲得して事業を行なうこと、イベントを行なうこと、が決まった。僕は、神奈川でユニークな活動を展開している市民団体やお店をデータベースにまとめて、サイトで公開する役になりそう。社会的な意義はありそうだから、助成金を獲得することは難しくないと思うけど、そのための時間を割けるだろうか。
 9時過ぎに打ち合わせが終了。帰宅途中、町田で下車して、「大戸屋」で食事。西友で買い物をして11時半に帰宅。あ、そうそう、吉成さん、結婚おめでとう!

10月24日(水)

 今日は引き籠もっていた。1日中ほとんど家にいて、外に出たのは、ポストに夕刊を取りに行ったときだけ。ヒッキーだなあ。
 どうも最近、精神的な調子が悪い。24時間、テンパっている感じだ。余裕のない生活を送っている。だから、その焦燥感から逃げ出したくって、すぐに布団をかぶって眠りたくなる。だから、余裕がないのに、寝てばかりいる。じっとしていることができない。何か落ち着かない感じだ。こういうときは、街中でドロケーしたりして遊ぶといいのかもしれない。昔、下北沢で遊んだみたいに。
 弟からメイルが来た。そこには、遂に第一歌集『駅へ』が手許に届いたと書かれていた。早速、弟に電話して、本の販売方法などを聞いてみた。弟曰く、歌集は1,000部刷って、そのうちの800部を弟が買い取る。そして、そのうちの約300部は、先輩歌人などに謹呈する、とのこと。だから、残りの約500部は、手売りしないといけないそうだ。要するに、『駅へ』も『もっともっともーっと神奈川!』と似たような境遇にある。『もっともっともーっと神奈川!』は、現在、在庫を700部抱えている。『駅へ』は、500部売らないといけない。取りあえず、『駅へ』100部を我が家へ送ってもらい、知り合いに買ってもらう約束をした。これを読んでいる貴方!ぜひ、『もっともっともーっと神奈川!』と『駅へ』を買って下さいね!(昔、所属していた劇団の芝居のチケットを手売りしていたことを思い出すなあ)

10月25日(木)

 今日も引き籠もっていた。でも、昨日よりは外に出た。ポストに夕刊を取りに行くだけでなく、自転車に乗って買い物に出掛けた。夕方、スーパーマーケットに行くと、主婦とみられる人たちが夕飯の材料を買っている。そこに混じって、買い物かごをぶら下げて店内を歩き、今晩は何を食べ、明日の朝は何を作ろうかなどを考えていると、主夫になったようで楽しい。
 しかし、楽しかったのはその時だけ。本当に息苦しい。きっと、バイオリズムがおかしいのだろう。もう今月は、無かったことにしてもいいくらいだ。いや、小浜島での結願祭は楽しかった。東京に戻ってきてから、ずっと変な感じなのだ。でも、沖縄が良いとか、東京が悪いとか言いたいのではない。僕は沖縄が好きだけど、東京も好きだ。こんな独り言を、ここにつらつらと書いてしまうところが、息苦しさを反映している。まあ、口笛吹いて、スキップしていれば、じきに調子よくなるだろう。口笛吹いて、スキップしながらできる社会学ってないかねえ。

10月26日(金)

 朝9時頃に起床。餅と納豆という簡素な朝食を食べてから、11時過ぎには家を出る。行きの電車の中で、センの『福祉の経済学』読了。1時前、研究室に到着。明日は、帯広で大塚プロジェクト沖縄班の研究会がある。今日中にその資料を作らないといけないので、かなり高い確率で徹夜することになるだろう。そう思って、コンタクトレンズのケースとメガネを持ってきた。コンタクトをはめたまま徹夜すると、目に良くないからね。
 沖縄・八重山から帰ってすぐに、明日の資料の目次案を作ったけれど、そのときに書こうと思ったことの半分くらいしか書けていない。到底、今日中に全部を書くことはできないので、6割程度まで書いたところで発表を迎えることになりそうだ。だから、書く順序を考えて、なるべくインパクトのありそうなところを中心に書くことにする。班長の松井さんからは、これまで発表したことの延長ではなく、何か違う話題でクリーンヒットを打つよう要請されているので、けっこうプレッシャーがかかる。それでも、もともとロー・アベレージ・ヒッターだからと、かかるプレッシャーをはねのけ、こつこつ文字を書き足す。
 もう後がないからか、珍しく今日は集中して物書きに専念した。当然、まだまだ書きたいことはあったけど、徹夜して書いても生産性が悪そうなので、12時過ぎに研究室を後にする。1時半に帰宅。でも、明日の飛行機の出発時刻が11時10分発と遅いので、ちゃんと寝られそうだ。

10月27日(土)

 朝7時過ぎに、目覚まし時計で起床。シャワーを浴び、朝食を食べ、パッキングし、メイルを打つなどしてから、9時に家を出る。小田急線、南武線、京浜急行線を乗り継いで羽田空港へ。国内旅行では、ANAを利用するのが常なのだが、羽田→帯広便はないので、久しぶりにJALに乗るのだ。
 空港に着き、搭乗手続きを済ませると、松井さんに出会う。すぐ横には、広島大の窪田さんも。さらに、福島県博の佐治さん、東大の中澤さん、静岡大の小松さんと東京から出発するメンバーは全員揃っていた。11時10分、JAL531便で羽田空港を出発、12時40分に帯広空港着。空港には、今日、明日の研究会でホスト役を務める帯広畜産大の関さんと、その学生の小島さんが来ていた。小島さんは、運転手兼雑用係ということらしい。
 まずは昼食を食べようと、小島さんの案内でそば屋に行く。北海道というと麺類はラーメンという印象が強いが、十勝はそばが有名らしい。混んでいたため少し待ってから店に入る。僕は、せいろ2枚を注文した。食後、宿泊する十勝温泉ホテル雨宮館へ行き、チェックインを済ませ、3時半から研究会スタート。佐治さんは稲荷信仰について、関さんは海中道路の建設に伴う社会変化について発表した後、7時過ぎから夕食の時間。夕食はかなりボリュームがあり、味も良かったので満足。食後、8時半から僕の発表。松井さんから雷が落ちることもなく、穏やかなうちに無事に終了。主として西表島のエコツーズムを話題として取り上げて発表したのだが、おおむね好評だったので良かった。その後、風呂に入り、11時頃からみんなでアルコールを飲んだけれど、1時前には就寝。今回は、東大の大塚さんや歴博の篠原さんがいなかったので、飲み方がソフトだった。あまり飲める口ではないので、その方が良いのだけど。

10月28日(日)

 7時半に起床。同部屋の男性軍(松井さん、佐治さん、中澤さん)は、朝風呂に入ったようだ。僕は、昨晩ゆっくり風呂に入ったので、朝風呂はパス。バイキング形式の朝食を済ませ、9時から2日目の研究会スタート。小松さんは恩納村の調査結果、窪田さんは泡瀬干潟の埋立問題について発表を行なった。昨日と同様、昼食は小島さんの案内で、そばを食べる。食後、関さんが教鞭を執っている帯広畜産大に移動。しかしその前に、帯広に本店がある六花亭に行く。お土産として、定番のバターサンドと、最近人気が高いというストロベリーチョコレートを購入。また、賞味期間が3時間という「さくさくパイ」を買って、これを午後の研究会のおやつとすることにした。ところで、この六花亭だが、今まで見くびっていたように思う。本店に入って、その実力の程を思い知らされた。まず、どの商品もすべて美味しそう。自然と頬が緩む。そして、何よりびっくりしたのは、喫茶室で売っているケーキの驚くべき安さ。ほとんどのケーキが100円台。東京のケーキ屋と比較すれば、半分以下、ともすれば3分の1くらいかもしれない。六花亭が、東京に進出してくることを切に願う。
 さて、お土産を買った後、1時過ぎから中澤さんを中心にして、来年度とりまとめるというマニュアル作りについて意見交換。そして4時半には研究会終了。その後、なぜか夕食として回転寿司を食べに行き、6時頃に空港に到着。その場で、関さん、小島さんと別れ、残りのメンバーは空港で出発便を待つ(このとき、空港の入口で、ナインティナインとはしのえみに遭遇)。1時間ほど待ってから、定刻を10分遅れて7時30分発のJAS 158便で帯広空港を発ち、9時過ぎに羽田空港に到着。空港で、松井さん、窪田さん、小松さん、中澤さんとはぐれてしまいったので、佐治さんとだけお疲れさまと挨拶する。9時40分発のバスに乗り、10時40分過ぎに新百合ヶ丘駅に到着。それから小田急線に乗って、11時半頃に帰宅。
 家に帰ると、いくつかの郵便物が来ていた。その中の1つが弟から届いた封筒で、京都新聞の切り抜き記事が入っていた。それによると、来月9日、10日の両日、京都市内で「バンブーエコフォーラム」が開催されるらしい。面白そうだけど、この日は愛媛で山登りだ。そう言えば、最近、日本の竹ファンクラブの活動に参加していないなあ。

10月29日(月)

 10時に起床。朝食は納豆と餅。それにココア。健康的なんだか不健康なんだか。
 昼過ぎに研究室に到着。密度の濃い週末を過ごしたので、半分腑抜け状態で、ネットサーフィンにうち興じる。最近、個人的には台湾、韓国など近隣諸国・諸地域への関心が高まっているので、関連する情報を調べる。12月に台湾を旅行するのは、今後、フィールドを海外に求めたいので、その下調べをしたいという気持ちもあるのだ。台湾における環境問題というと、やはり原発の問題が題材としては面白そうだ。しかし、研究するのは大変そう。それに比較すると、韓国の方が里山という切り口で調査に入れそうな気がする。来年は韓国旅行に行こうかね。
 夜、暗くなったので夕食でも食べようかと思ったら、財布を持ってきていないことに気付く。そこで8時には研究室を出て、9時すぎに帰宅。帰りの電車の中で、サイードの『知識人とはなにか』を読了。さて、家に帰ったはいいが、食材が少ないので、夕食はそばとホット豆乳。ホット豆乳とは単に豆乳を温めただけの飲物だけれど、意外に美味しい。ホットミルクと同じように表面に膜ができるのだが、豆乳の場合、これが湯葉となるのがミソなのだ。

10月30日(火)

 8時起床。9時に家を出て、久しぶりに都心に向かう。小田急線と総武線を乗り継いで水道橋駅へ。下車徒歩8分くらいのところにある文京シビックセンターの26Fスカイホールへ急ぐ。10時半過ぎに会場に到着。今日は、ペレットクラブ準備会の総会&第2回ワークショップがあるので、そのスタッフとして赴いたのだ。
 着いて早々、事務局長の小島さんから受付担当を命じられる。午前中はペレットクラブ準備会の総会だ。10時40分から、フリーライターの佐藤さん、金沢で製材所を営んでいる米沢さんとともに、受付作業を始める。およそ30名ほど集まっただろうか、12時までに無事に総会を終了。どさくさにまぎれて、僕が監査を務めることになった。
 昼食休憩をはさみ、12時半過ぎから、午後のワークショップの受付を始める。ワークショップには、合計100名近い人々が集まった。あらためてペレットへの関心の高さを実感する。今日のワークショップのテーマは、ペレットの燃焼について。ペレットストーブを輸入している業者や、ストーブ・ボイラーの開発を進めている業者などが、それぞれの取組を口頭発表した。日本のペレット燃焼技術は、欧米に比べて立ち後れているため、まだまさ開発途上であるが、黎明期の勢いのようなものを感じることができた。しかし、拙速に事を進めると、昔と同じ轍を踏むことにもなりかねない。急ぐことは必要だが、国民的なコンセンサスを得ていくことも必要だから、僕らの会のような情報発信活動もきわめて意義が大きいように思った。
 十文字さんの見事な司会により、ワークショップは滞りなく終了。続いて5時過ぎからは懇親会が始まる。参加費が4,000円と高額な割に、食事の量があまりに少ないことには閉口。しかし、全国に散らばっている事務局担当者で、今日出席していた人とは全員名刺交換できたので、実り多い交流ができたように思う。
 懇親会終了後は、水道橋の飲み屋で二次会。島根大の小池先生や、ペレットクラブ事務局の小島さん、麻住くんなど8名が集まった。僕の隣には、神奈川森林エネルギー工房でも恩田の谷戸ファンクラブでも一緒に活動している辻本さんが座ったので、もっぱら辻本さんと今後のエネルギー工房の活動の方向性などについて話し合う。11時過ぎに二次会はお開きに。帰りの電車の中で、富山和子の『環境問題とは何か』を読了。僕と似た問題意識を持ち、良いこと言っているんだけど、「然り」と肯けないのは、書き方が傲慢なためだろう。帰宅したのは12時半。

10月31日(水)

 先日、弟に電話して、刊行したばかりの第一歌集『駅へ』をまとめて100冊くらい送るように言っておいた。弟は月曜日に送ったと聞いていたので、今日辺り届く頃だろうと思って待っていたら、10時過ぎに小包3箱が届いた。1箱に30冊ずつ入っているので、合計90冊であった。すかさず1箱を開け、中から1冊を取りだし、ぱらぱらとめくってみた。すでに、このHPで紹介している短歌も数多く含まれている。ほどなく、これまで読んだことがなかった「結婚式」という一連を見つけ、読み始めた。これが衝撃的だった。弟自身の結婚式を詠んだ短歌が収められているのだが、非常にストレートに自分の気持ちを詠んでいたのだ。
 弟は、ほとんどプライベートを明かさない。これは短歌にも現れていて、彼の歌を読んでも、濃密な存在感を感じることはなかった。透明で、ドライな歌だった。それが、結婚した頃から、相聞歌も増えてきた。とは言え、まだまだ彼特有の透明で冷めた視線があった。それが、この「結婚式」という一連には、ないのである。明らかにこれまでとは異なり、一歩踏み込んだ歌となっている。そして、なおのこと驚いたのは、この一連で親父について多く詠っていたことだった。歌に託して、親父へメッセージを伝えていたことだった。
 10代の頃、家族関係は最悪だった。弟と親父の関係は、お袋と親父の関係に輪をかけて、いつも僕の心を悩ませていた。今は4人がばらばらに住み、それぞれがお互いの生き方を尊重できる関係となっているように思う。今となっては、なぜ家族同士でいがみ合っていたのか、当人同士も分からないだろう。でも、あの頃は、本当に重たい日々が続き、神経を磨り減らしていたように思う。
 「かすがいになれなかった子もいつの日か父となる日を夢に見ている」「「離婚した親を持つ子」であることも終わりと思う今日を限りに」。うかつにも、僕は涙を流した。弟が結婚を契機に「結婚式」を詠うことで、彼自身のトラウマを乗り越えて行く姿を見、「そして、自分は」と思ったときに。
 感傷に浸っている場合ではない。これは日記だった。
 1時過ぎに研究室到着。6時半頃、研究室を出て、経堂にある実家へと向かう。途中、紀伊国屋の新宿南口店に寄って、地形図を購入。そして、ここで働いているメグちゃんに挨拶。8時過ぎに実家に到着。食事をしながら、もっぱら『駅へ』を話題に夜遅くまで、お袋と話をする。1時前になって、そろそろ帰らないと終電に乗り遅れると思って実家を出る。が、駅に着くと、ちょうど終電が通り過ぎた後だった。仕方なく実家に戻り、ソファーを借りて眠る。

TOP(日々の表現)雑記日記(2001/2/8-2003/8/25)

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